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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第3節 gossip [7]




 上擦りそうになる声を必死に整える緩の姿が目の裏にでも浮かんだのだろうか? 廿楽華恩は電話の向こうで少し楽しげに口の端を上げた。
「今はご自宅?」
「はい」
「そう。一度ご帰宅なさったところを申し訳ないのですけれど」
 申し訳ないなどとは露ほども思っていないだろうに、至極丁寧な言葉遣いがなお嫌味だ。
「これから学校へ来ていただける?」
「え? これから?」
 視線を向ける窓の向こうは夕日。日の入りは六時前だから、もう暮れているか、あと数分で陽は落ちるだろう。
 一瞬言葉を失ってしまった緩。
「あらあら、お忙しいというのでしたら、無理にとは申しませんのよ」
「そっ そんな事はありません」
 慌てて声を大きくし
「でも、学校って… 私がこれから家を出ても、学校に着くのは六時半はまわるかと」
「あら大丈夫。さきほど許可は取ってきましたから」
 実際に許可を取ってきたのは廿楽の取り巻き。それを廿楽は、さも自分が取ってきたかのような口ぶりで続ける。
「八時までは出入り自由ですわ」
「え? 八時まで?」
「えぇ そうなの」
 そこで廿楽は、明らかに発声の速度を落した。
「どうしても今日中に、緩さんにお聞きした事がありまして。お忙しい?」
 忙しくったって、断れるわけがないだろう。すぐに行きますと告げ、緩は電話を切った。
 何だろう?
 廿楽の口調は、決して不機嫌ではなかった。緩の対応をおもしろがっている様子でもあったし、何かを咎められるわけではなさそうだ。理不尽に罵倒されるような事態を想定する必要はないだろう。
 だが、口調があまりにゆったりとしていて、逆に不安を感じる。
 これからって、いったい何だろう?
 胸の内が騒ぐ。
 窓から入り込む風が寒い。昨日、義兄の聡と言い争った時はエアコンをつけるほど蒸し暑かったのに。
 緩は結局、まだ事の撤回ができずにいた。
 昨日聡に迫られ、撤回すると言わされた。
 だが、結局できないまま下校してしまった。
 視線を向ける先。短髪の異性がすこし照れたようにこちらを見つめている。
 この事実を暴露されるのはどうしても避けなければならない。なにより、毛嫌いする聡の口から広められるのは屈辱の極みだ。
 だが――――
 大迫美鶴の一件で、今朝、登校早々に副会長室へ呼ばれた。
「まぁ 緩さん、殴られたと伺いましたけれど、大丈夫?」
 心配するような言葉の裏で、廿楽は確実に笑っていた。
 よくやりましたわね。
 直接口にはせずとも、その言葉がありありと溢れていた。
 よかった。これで廿楽先輩に突き放される事もなくなる。
 嬉しいというより、緩は安堵の気持ちで涙すら出そうになった。
 それなのに、ここで撤回などしてしまえば、再び廿楽の信頼を失う事になる。あれだけ喜ばせておきながら撤回などしたら、今度はどんな扱いを受ける事になるか。
 だが、聡の存在もある。モタモタと撤回を渋っていたら、あの粗暴な義兄がどんな行動に出るか。考えると、それも脅威だ。
 どうしよう?
 悩んでいるところに廿楽からの呼び出し。
 何だろう?
 画面の中から、甘い微笑み。
『お前なら、大丈夫だ』
 自分へ向けられる優しい瞳に、緩は自然と頷いてみせる。
 大丈夫だ。何も悪いことなど起こるはずはない。なぜなら、自分ほど実直で素直で真面目に毎日を過ごしている人間に、不幸など起こるはずもないのだから。
 そう言い聞かせ、緩はゲーム機の電源を切った。





 ちょっと、大人げなかったかな。
 瑠駆真はぼんやりと歩きながら唇に指を当てる。
 コンビニからの帰り。もう片方の手にぶら下げたビニール袋の中では、カップラーメンがカサカサと音を立てている。
 美鶴の家では思った以上に菓子を食していたらしい。家に帰ってからも腹は減らず、シャワーを浴びてそのまま寝てしまった。だが、やはり育ち盛り。菓子だけで満足できるはずもなく、深夜という中途半端な時間に目が覚めてしまった。

「ただの、事故だよ」

 我ながら、なんて冷たい言い草だったのかと呆れる。だが、母親を話題に出されて、(こころよ)く受け答えなんてできない。嫌いだった母親の事なんて、今さら思い出したくも無い。
 ビニール袋を引っ掛けた指を握り締める。

「お前が、初子先生を殺したんだ」

 悪いのは僕じゃない。
 そんな言い訳じみた言葉に、まるで答えるかのような声。
「本当に、悪いお子様だな」
 振り返る先で、一重の瞳がおもしろそうに笑う。
「夜十時以降は外出してはダメだと、初子先生に教えられなかったのか?」
「小童谷」
 呟くような瑠駆真の言葉に、小童谷陽翔はおどけた仕草で瞳を閉じた。







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